Puzzle -自分らしさを取り戻させてくれた歌-
高校生の頃流行っていた曲…湘南乃風の『睡蓮花』。私は、湘南乃風が嫌いだった。バンドにばかり憧れを抱いていたので、「楽器も使わずにただ4人で歌ってるって何?」と思っていたし、「すげーチャラそう…こういうの無理。」と毛嫌いしていたのだ。
そんな私は、高校卒業後にアメリカの大学に進学した。
アメリカでは、留学生の就労は禁止だ。大学内の売店やカフェなどでは許可されているが、ほぼ全留学生+アメリカ人が応募するため、雇ってもらうのも狭き門を潜り抜けなければならない。私も2年生の頃に何度か応募したが、返事が来ることはなかった。
そのため、私は日本の大学生の多くが体験するようなバイトをやったことがない。コンビニで働いたり、飲食店で働いたり…今思えば、経験しておきたかったなーと思う。唯一したことのあるバイトは、毎年の夏休み(アメリカの大学は5月〜8月までの3ヶ月間が夏休み!)に帰郷して、同じく母校で英語のチューターをしたくらいだ。いや、「くらい」というのは失礼かな?大学生で、塾講師をする人はいても、高校のバイトをしたことがある人は少ないだろう。私は本当に恵まれていたと思う。
アメリカの大学で勉強していく中で、元々の夢からシフトチェンジをし、卒業後は日本の英語教育に携わろうと考えた(これはまたどこかで詳しく)。そこで、声をかけてくれたのは母校だった。学校で教員をするためには教員免許が必要なので、母校で講師として働きながら、日大の通信教育学部に通うことにしたのだ。それなら、仕事には実家からも通えてお金もセーブできる。本当にありがたい話だった。
しかし、帰国して約3ヶ月後のある日…仕事を終えて車に乗った瞬間に、私の頭の中で、はっきりと【プツン】と何かが切れる音がした。
私は高校を卒業してすぐアメリカに行ったため、感覚がアメリカナイズされてしまっていた。でも、「日本で働くのだから、いくら母校と言えども、アメリカにいた時のように考えたり行動してはいけないよな…もう大学生じゃないし。【アメリカ被れ】と言われてしまうかもしれない。」という不安から、帰国直後は周りの目を気にしながらの毎日だった。
さらに、勤務先は高校だ。【日本の学校の先生】のイメージは、私という人間からは相当かけ離れている。でも、「教育に携わると決意した以上、郷に入れば郷に従うしかない。」と考え、最初のうちは生徒に対してもかなり猫を被っていた。声を上ずらせ、優しそうな先生を演じた。うるさい生徒がいても、「大丈夫かなー?」ってやんわり注意する程度。授業の進め方も、とりあえずお決まりな感じの流れでやっていくだけ。当然、生徒との距離は縮まらなかった。
それらがいつの間にかストレスとして溜まっていたらしく、突然、無性に1人で音楽をガンガンかけながらドライブしたくなった。親には「少し遅くなるけど、心配しないで。」とだけ伝え、夜の7時から常呂の海までドライブをした。
虚無感に包まれながら、海を少し見て、また音楽をかけながら帰ってきた。「私には、日本で教育に関わるなんて無理なんじゃないか…。」そう思いながら、ゆっくりと帰り道を走らせた。
家に着くと、もう10時近くになっていた。リビングのドアを開けると、両親はあるドラマの最終回を観ていたらしい。『ゼロの真実 〜監察医・松本真央〜』という作品だ。私は基本ドラマをほとんど観ないので、テレビに映る最終回のめっちゃ良いシーンにも興味を引かれず、親からの「遅かったね?どうした?」という質問に適当に答えていた。すると、【エンディングテーマ】が流れ出し、そこで私の意識は一気にテレビに持っていかれた。
こんなはずじゃなかった 俺の歩んできたキャリアは
人目ばかり気にしてた
まずは自分を否定して バラバラにぶち壊してやる
決められたフレームの中でも 組み合わせ次第で変わる
誰もが認める完成図よりも お前だけの景色を描け
すぐにYouTubeで検索し、この曲を、このフレーズを、何回も聴いた。あんなに嫌っていた湘南乃風の曲を、何度も何度も聴いた。
私は【私らしく】で良いんだ。そう気づかせてくれた。
その次の日から、私は徐々に自分らしさを取り戻していったのだ。生徒の前でも、フランクな自分をさらけ出した。すると、だんだん生徒たちとの距離も縮まっていき、それが私に【教員であることの喜び】を教えてくれた。この仕事に巡り合えたことの幸せを教えてくれた。
確かに、今考えても、私は教員という【人のお手本】のような人間とは程遠い。
それでも、私は教えることが好きだ。教育に関わることが好きだ。誰かに何かを伝えることが大好きだ。
どんな形でも良いじゃないか。どんな自分でも良いじゃないか。自分だけの完成図を求めて、これからもパズルを組み立てていこう。